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プロゴルファーの妄言?
かつてはアメリカツアーにも参戦し、現在はゴルフ解説や日本のシニアツアーで活躍する、とあるプロゴルファーがいる。
穏やかに、かつ理路整然とした解説で視聴者にも好意的に受け入れられているプロゴルファーの一人だと思うのだが、そんな彼のブログが、あまりにトンデモな内容だったので、思わず目が点になってしまった。
これまで、彼のブログは時々通りすがりで見るぐらいで、その内容から保守思想の強い人なんだろうな程度の認識だったのだが、先日更新されたブログのエントリーでは、普段の理論派のイメージとは凡そかけ離れた、オカルト思想に傾倒した内容となっており、この人大丈夫か?と、勝手に心配してしまうほどだ。
もちろん、思想信条は個人の自由であり、発言の自由も当然あるのだが、少なからず著名人となれば、社会的な影響も考慮しなければならないであろうし、発言に対してそれなりの責任を負う立場となるのではないだろうか。
にも関わらず、あまりに無自覚かつ無責任な発言のオンパレードに、甚だお節介なのは承知の上、当ブログとしてはどうしても見過ごすことができず、この度、突っ込みを入れる自由を行使して、急遽エントリーを上げるに至った次第だ。
で、件のブログだが、至る所にトンデモポイントが散りばめられており、いちいち取り上げようとすると全文紹介になりかねないので、誠に勝手ながら、引用はさわりの一部とさせていただく。
以下が気になった方は、是非、リンク先で全文をお読みいただきたい。
エントリーのタイトルからして、怪しい匂いが満載だ。
先日の台風の動きを書き出しに、話は人工地震に及び、災害はある特定の人間によって引き起こされているとしている。
で、この後に、タイトルにあった『東方が巨大な実験の場になる』『永遠の未成年集団が出現する』といったヒトラーの予言とされる一文を引用して取り上げ、これが今の日本の社会情勢と合致し、予言は当たっているのでないかと話は続く。
更には、とある本に書かれている事として、世界支配に関する話題に突入し、最後は「日本民族の遺伝子の中には 凄いものがあるのかもしれない」という一文でブログの本文は締めくくられている。
いやはや、プロゴルファーのブログとは到底思えない、壮大なトンデモブログだ。
ヒトラーの予言を肯定的に捉えながら、日本民族の優位性まで言及するとは、まさに見事なまでの極右思想。
というか、この手の予言や陰謀論などの話題は、居酒屋での四方山話か身内相手にするレベルの話だと思っていたのだが...
少なくとも、一介のプロゴルファーが、ましてやゴルフとは関係も無い話題で、無責任に書けるような話ではないはずだ。
果たして、彼には確固たる信念や確証を持った上で書いているのだろうか?
であれば、是非とも、それを読者に示して欲しいところだ。
さすがの津川雅彦ですら、ここまでは書けないのでは?(笑)
今の日本で右傾化というと、ついネットを中心とした若者世代を思い浮かべがちだが、年代を問わず広がっていることをよもや実感したケースと言える。
とはいえ、今回の話は、もはや右だの左だといったイデオロギーを超越している内容とも言えるけど。
この際はっきり言っておきたいのだが、予言や陰謀論でこの世を語るのは妄言でしかない。
そして、その妄言は、考える事を放棄した人にのみ入り込んでくるのだ。
仮に、このような妄言が受け入れられようものなら、日本全体が思考停止に陥ったことを意味する。
即ち、それは日本の終わりを意味することに他ならないのだ。
穏やかに、かつ理路整然とした解説で視聴者にも好意的に受け入れられているプロゴルファーの一人だと思うのだが、そんな彼のブログが、あまりにトンデモな内容だったので、思わず目が点になってしまった。
これまで、彼のブログは時々通りすがりで見るぐらいで、その内容から保守思想の強い人なんだろうな程度の認識だったのだが、先日更新されたブログのエントリーでは、普段の理論派のイメージとは凡そかけ離れた、オカルト思想に傾倒した内容となっており、この人大丈夫か?と、勝手に心配してしまうほどだ。
もちろん、思想信条は個人の自由であり、発言の自由も当然あるのだが、少なからず著名人となれば、社会的な影響も考慮しなければならないであろうし、発言に対してそれなりの責任を負う立場となるのではないだろうか。
にも関わらず、あまりに無自覚かつ無責任な発言のオンパレードに、甚だお節介なのは承知の上、当ブログとしてはどうしても見過ごすことができず、この度、突っ込みを入れる自由を行使して、急遽エントリーを上げるに至った次第だ。
で、件のブログだが、至る所にトンデモポイントが散りばめられており、いちいち取り上げようとすると全文紹介になりかねないので、誠に勝手ながら、引用はさわりの一部とさせていただく。
以下が気になった方は、是非、リンク先で全文をお読みいただきたい。
ヒトラーの予言
沖縄付近で停滞していた台風は 一気に北上し 日本列島を縦断していきました。
この台風 本当におかしな動きをしました。台風という自然現象の動きではなく 誰かが
コントロールをしているような動き。太平洋で発生した台風ですが 進路を北西に取り
沖縄付近で 時間を待つかのように停滞し 動き出すと一気に北東に進路を取りました。
前回の大雨で大きな災害が起きた 紀伊半島付近に上陸し 3月の東日本の震災で
被害にあった地域を通過する際には 時を合わせた様に 震度5弱の地震まで。
今年3月の震災前の私だったら 地球は温暖化によって おかしくなり始めているとしか
思わなかったのですが 3月の震災後のある情報で 「人工地震」ではないかというものが あり インターネットやいろいろな本を読み 今の私は 地球で起こっていることへの見方が 変わり始めています。
「地球で起こっていることは ある特定の人たちによってコントロールされている。
それは 普通に生きている人たちには分からないようになっている」というものです。
つまり 地震も気象も そして人間の考え方でさえも。
2011年09月22日(水巻良典公式ブログ見聞感より抜粋)
エントリーのタイトルからして、怪しい匂いが満載だ。
先日の台風の動きを書き出しに、話は人工地震に及び、災害はある特定の人間によって引き起こされているとしている。
で、この後に、タイトルにあった『東方が巨大な実験の場になる』『永遠の未成年集団が出現する』といったヒトラーの予言とされる一文を引用して取り上げ、これが今の日本の社会情勢と合致し、予言は当たっているのでないかと話は続く。
更には、とある本に書かれている事として、世界支配に関する話題に突入し、最後は「日本民族の遺伝子の中には 凄いものがあるのかもしれない」という一文でブログの本文は締めくくられている。
いやはや、プロゴルファーのブログとは到底思えない、壮大なトンデモブログだ。
ヒトラーの予言を肯定的に捉えながら、日本民族の優位性まで言及するとは、まさに見事なまでの極右思想。
というか、この手の予言や陰謀論などの話題は、居酒屋での四方山話か身内相手にするレベルの話だと思っていたのだが...
少なくとも、一介のプロゴルファーが、ましてやゴルフとは関係も無い話題で、無責任に書けるような話ではないはずだ。
果たして、彼には確固たる信念や確証を持った上で書いているのだろうか?
であれば、是非とも、それを読者に示して欲しいところだ。
さすがの津川雅彦ですら、ここまでは書けないのでは?(笑)
今の日本で右傾化というと、ついネットを中心とした若者世代を思い浮かべがちだが、年代を問わず広がっていることをよもや実感したケースと言える。
とはいえ、今回の話は、もはや右だの左だといったイデオロギーを超越している内容とも言えるけど。
この際はっきり言っておきたいのだが、予言や陰謀論でこの世を語るのは妄言でしかない。
そして、その妄言は、考える事を放棄した人にのみ入り込んでくるのだ。
仮に、このような妄言が受け入れられようものなら、日本全体が思考停止に陥ったことを意味する。
即ち、それは日本の終わりを意味することに他ならないのだ。
オフレコ政治
前回のエントリーにて脇が甘いといった側から、ものの見事にスタートダッシュでコケで見せた野田政権。
その鉢呂前経産大臣の辞任騒動に関しては、色々と議論が出尽くした感もあるが、どうしても未だに腑に落ちない点が残っている。
それは、何故オフレコの話をメディアが書きたてるに至ったのか。
閣僚のオフレコ談話がそのまま世間に出たとしたのなら、政権側からすれば由々しき事態と言えるはずだ。
にも関わらず、当の政権内からそれを指摘する声はほとんど聞かれない、唯一与党である輿石幹事長が物申したのみで、大臣の首をすげ替えることで首尾よく落着してしまっているのだ。
更に、辞任後の鉢呂前大臣自らが真相を語ろうとしないところが、より不可解な辞任劇であったことを際立たせている。
陰謀論などに加担する気など毛頭無いのだが、今回の顛末にはあまりに不透明な点が多く、どうにも気になるのだ。
この事は、大臣の発言内容の是非とはまったく別次元のものであり、今後の野田首相の政権運営に深く関わる、決して見過ごしてはならない出来事であると、当ブログでは考えている。
一説には、マスコミの横暴だとする論調も数多く見受けられるようだが、そう考えるのはあまりに安直だ。
仮に、これを記者クラブから現政権に対する圧力と解釈するならば、政権サイドからもっと反発があってしかるべきだと考えられるのだが、そういった動きはほとんど聞かれない。
少なくとも、オフレコの談話をそのまま記事にするということは、そこに何かしらの政治的な判断が伴う訳で、一介の通信社が独断で行うとは到底考えにくい。
察するに、記者クラブと官邸なり政権サイドとの間で、なんらかの駆け引きがあったと考える方が、自然なのではないだろうか。
ちなみに、似たような形で、前松本復興大臣のオフレコ発言の映像がそのまま使われて、辞任に至ったケースもあったが、あれは、公式の場の取材で、しかも発言後に大臣がオフレコ扱いにするようマスコミに要請(強要)したものであり、今回のケースとは、事情がまるっきり違うと考える。
むしろあの時でさえ、オフレコ要請に反発したのは地元の放送局だけで、大手メディアはオフレコ要請に従っているのだ。
尚更、今回のオフレコが表に出てきたことが、奇妙に写ってしまう。
鉢呂前大臣の発言は偶発的なものだったにしろ、後任の人選を考えると、反原発の流れを封じ込めるタイミングに使われたとする憶測も、あながち否定できないのだ。
民主党と言えば、元々記者クラブ制度を開放するなどの情報公開を行うと、国民に訴えていた政党だ。
しかしながら、一部では公開されるケースも出てくるようになったものの、本来訴えていた情報公開とは程遠いのが現状であり、結局、記者クラブの閉鎖性は存続し、オフレコの慣習も残ったまま今に至っており、今回の辞任劇は、情報公開とは正反対のそうした古い体質の中で繰り広げられたことになる。
情緒的な話題が先行し、事の真相が明らかになることもなく大臣が交代したのも、そうした体質の成せる技なのだ。
いくらインターネットで情報化社会が進んだといっても、こと政治報道における一次ソースの大半は、大手メディアから発信されるものであり、我々はそれを準拠するしか他はないのだ。
しかし、メディアと政権の互助関係が続く限り、報道内容の客観性や公共性が損なわれる恐れが常に付きまとい、真相が覆い隠される危険を孕んでいることを、忘れてはならない。
野田政権下ではこのようなメディアとの相互関係が、より強まると当ブログでは考えており、その報道内容を、注意深く精査していく必要があると考えている。
政治において、国民の知る権利を奪うということは、民主主義を否定するということなのだ。
情報公開を行うつもりが無いのなら、民主党は即刻政権から降りてもらいたい。
その鉢呂前経産大臣の辞任騒動に関しては、色々と議論が出尽くした感もあるが、どうしても未だに腑に落ちない点が残っている。
それは、何故オフレコの話をメディアが書きたてるに至ったのか。
閣僚のオフレコ談話がそのまま世間に出たとしたのなら、政権側からすれば由々しき事態と言えるはずだ。
にも関わらず、当の政権内からそれを指摘する声はほとんど聞かれない、唯一与党である輿石幹事長が物申したのみで、大臣の首をすげ替えることで首尾よく落着してしまっているのだ。
更に、辞任後の鉢呂前大臣自らが真相を語ろうとしないところが、より不可解な辞任劇であったことを際立たせている。
陰謀論などに加担する気など毛頭無いのだが、今回の顛末にはあまりに不透明な点が多く、どうにも気になるのだ。
この事は、大臣の発言内容の是非とはまったく別次元のものであり、今後の野田首相の政権運営に深く関わる、決して見過ごしてはならない出来事であると、当ブログでは考えている。
【鉢呂前経産大臣 インタビュー詳報】
東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発周辺地域について「死の町」などと発言したことで引責辞任した鉢呂吉雄前経済産業相が19日までに産経新聞社の単独インタビューに応じた。
※以下抜粋
-鉢呂氏は記者に近づいたということだが
「近づいたってのも、そう言われるから。あなたたち、近い付いた、なすりつけたようなことを言われたから、そういう記憶はないということは言ったけどさ、その後。そこのところは、次の日だけども、記憶に、思い出してこないの。
だけども、一番、毎日新聞の朝刊は、毎日新聞の記者になすりつけたとか、つけちゃったぞとか、という趣旨の発言をしたと。
その生の言葉そのものでないもんだから、実際、どういう、放射能をうつしたとか、わけたとか、ほら放射能とか、それぞれだいぶ違うことになっているもんだから、放射能をつけてしまったぞ、とか言ったら、そのぐらいまで言ったら、記憶まったくないわけでもないが、『ほら、放射能』と読売が書いているのが一番(当たっている)、僕は、そう言ったら記憶に残らないと思うが、放射能を分けるとか、つけるとか、僕にはないんだけどね、言葉の感覚として…」
-では記者団に対してどういう発言をしたのか
「そこが記憶ないんですよ。その、はっきりいって…」
2011年9月19日(産経ニュース)
一説には、マスコミの横暴だとする論調も数多く見受けられるようだが、そう考えるのはあまりに安直だ。
仮に、これを記者クラブから現政権に対する圧力と解釈するならば、政権サイドからもっと反発があってしかるべきだと考えられるのだが、そういった動きはほとんど聞かれない。
少なくとも、オフレコの談話をそのまま記事にするということは、そこに何かしらの政治的な判断が伴う訳で、一介の通信社が独断で行うとは到底考えにくい。
察するに、記者クラブと官邸なり政権サイドとの間で、なんらかの駆け引きがあったと考える方が、自然なのではないだろうか。
ちなみに、似たような形で、前松本復興大臣のオフレコ発言の映像がそのまま使われて、辞任に至ったケースもあったが、あれは、公式の場の取材で、しかも発言後に大臣がオフレコ扱いにするようマスコミに要請(強要)したものであり、今回のケースとは、事情がまるっきり違うと考える。
むしろあの時でさえ、オフレコ要請に反発したのは地元の放送局だけで、大手メディアはオフレコ要請に従っているのだ。
尚更、今回のオフレコが表に出てきたことが、奇妙に写ってしまう。
鉢呂前大臣の発言は偶発的なものだったにしろ、後任の人選を考えると、反原発の流れを封じ込めるタイミングに使われたとする憶測も、あながち否定できないのだ。
民主党と言えば、元々記者クラブ制度を開放するなどの情報公開を行うと、国民に訴えていた政党だ。
しかしながら、一部では公開されるケースも出てくるようになったものの、本来訴えていた情報公開とは程遠いのが現状であり、結局、記者クラブの閉鎖性は存続し、オフレコの慣習も残ったまま今に至っており、今回の辞任劇は、情報公開とは正反対のそうした古い体質の中で繰り広げられたことになる。
情緒的な話題が先行し、事の真相が明らかになることもなく大臣が交代したのも、そうした体質の成せる技なのだ。
いくらインターネットで情報化社会が進んだといっても、こと政治報道における一次ソースの大半は、大手メディアから発信されるものであり、我々はそれを準拠するしか他はないのだ。
しかし、メディアと政権の互助関係が続く限り、報道内容の客観性や公共性が損なわれる恐れが常に付きまとい、真相が覆い隠される危険を孕んでいることを、忘れてはならない。
野田政権下ではこのようなメディアとの相互関係が、より強まると当ブログでは考えており、その報道内容を、注意深く精査していく必要があると考えている。
政治において、国民の知る権利を奪うということは、民主主義を否定するということなのだ。
情報公開を行うつもりが無いのなら、民主党は即刻政権から降りてもらいたい。
政党とはこれ如何に
8月末に民主党の代表選挙が行われ、新たな代表即ち総理大臣が決まった。
加えて、党人事や組閣の陣容を見て、やたら気が重くなった次第だ。
挙句、各社の世論調査では、高い内閣支持率が出ているようで、失望感すら感じている今日この頃となっている。
巷では、どじょう内閣だの泥臭い総理だのと、もてはやされているようだが、当ブログには泥まみれの内閣にしか到底見えない。
さしずめ、これまでの民主党政権から漏れ出た政治課題を、野田新総理がせっせと泥で塞いでいくということなのだろう。
残念ながら、これで日本の政治が当面停滞することは間違いないと、当ブログでは考えている。
もともと、民主党といえば、政治理念や政策、背景や利害関係等々、それぞれ異なる政党や政治家が、政権交代を目的に集まって構えた政党であり、与党となった今では、政権維持の為だけに政党の体を成している、言わば、はりぼての党だ。
政権を取るまでは、2大政党制を目指すとしたリベラルな看板を掲げてはいたものの、その実態は左右ごちゃまぜの翼賛政党であり、特に政権交代以降の外交、経済の両政策の迷走振りや、親小沢、反小沢の不毛な党内対立など、民主党の体質をよく現す事柄には枚挙にいとまが無い。
今回の閣僚人事を見ても、民主党体制を維持する為だけの組閣でしかなく、国民目線はおろか、政治的にもなんら一貫性の無い政権である事は一目瞭然だ。
そもそも、新自由主義者と増税主義者が党内のみならず閣内に存在している政権など、本来ありえない話であり、それこそ、党内融和などという言葉が平然と飛び交う政党なぞ、もはや政党としての意義を失っていると言わざるを得ない。
マニフェストを掲げて政権を取った以上、現実路線や妥協路線への政策転換を図るのであれば国民に信を問うか、そもそも意見が異なるのであれば党内を解体して、再編するのが本筋であるはずだ。
しかし民主党は、毎度の党首交代によって、党の本質的な問題点をうやむやにし、その責任を国民の目から逸らし続けているのだ。
そして今尚、そのような政党が、与党であり続けているのは、もはや異常事態としか言いようがない。
いずれにしても、様々な政治思想を抱えた翼賛内閣では、詰まるところ打算内閣としかなりえず、結局は、霞ヶ関の意のままに硬直した政治体制が続いていくことになるのだ。
これは、かつての自民党政権時代の末期と同じ流れとも言えなくもないのだが、民主党の場合、自民党以上に党内の政治カラーが混沌としているだけに、あらゆる批判や軋轢を飲み込んでしまう、言わばブラックホールと化した政党となってしまっている。
したがって、野党からしてみれば、与党が翼賛政党であればあるほど、政治的な対立軸を打ち出す余地を奪われることとなり、自民党のように判りやすいほどに右極化していくか、公明党のように信者頼みになるしか、もはや野党としての存在感を示せなくなりつつあるのだ。
それこそ、社民党や、現実路線に転換中の共産党などは、既に民主党にその存在感を飲み込まれたと言っても過言ではない。
このような与野党の関係に陥ってしまっては、政策的な論戦が望める訳もなく、結局のところ、スキャンダル追求に終始する永田町劇場が繰り返されることになるだけなのだ。
特に、今回の閣僚人事では脇の甘そうな人材がゴロゴロしているだけに、恐らく国会では相当に無駄な時間を費やすことになるのであろう。
しかし、それとて、民主党政権の延命をアシストすることでしかなく、決して国民の利益に繋がるものではない。
本来、政治家や政党は政策の実行とその結果で評価されるべき存在であると思うのだが、硬直し混沌とした政治体制となった今、人格面だけでその評価が決まるほどに、日本の政治は落ちぶれてしまっているのだ。
だとするならば、政党は、一体なんの為に存在するのか?
現行の国政において、政党の意義を失っているということは、議会制民主主義そのものが破綻していることを意味するに等しい。
選挙制度改革以前に、政党の在り様を正すことが、まずもって行わなければならないことなのだ。
そして現在、そのような政党政治の機能不全によって、国民生活の不満を政治が受け止めることが出来ず、ナショナリズムに流れ始めようとしている。
例えば欧米で見られるような、多くの国民の受け皿となるべく、いわゆる中道左派の政党が存在していないことが、日本の右傾化、保守化に拍車を掛けているのだ。
このようなバランスを欠いた、日本の政治体制は、更なる社会不安を招くことでしかない。
一刻も早く、あるべき政党政治を確立しなければならないのだ。
しかし、残念ながら、野田政権下では、それが叶う事は無いであろう。
それこそ、党内融和の如く与野党融和を謀るべく、自民、公明の主張を体よく取り入れていくことで、与野党間の争点を薄め、その翼賛体質をより強めていく可能性が高いと思われる。
わざわざ大連立を組んで、利害の調整に明け暮れるよりも、政策の争点を打ち消して野党を弱体化に追い込む方が、民主党にとっては都合がいいのだ。
まさに、国民不在の政治を推し進めることとなるであろう。
せっかく菅、鳩山前総理の稚拙な政治センスでもって、国民目線の政治課題が浮き彫りになったものが、野田総理によって、泥で埋め戻されることになる。
しかも、今度の総理は、菅、鳩山よりは、まさに狸の如く国民の目を欺くのに長け、保守回帰を目指さんとする政治家なのだ。
早速、原発対応や復興増税に関して、ダブルスタンダードな動きも見せ始めており、彼らの思惑を決して見過ごしてはならない。
少なくとも、任期一杯まで野田総理は、政権維持の為に、したたかにあらゆる手段を講じてくるであろう。
当ブログでは、その動向を注意深く見ていくつもりだ。
最後に「政党」の意味を引用してこの稿を終わりにしたい。
加えて、党人事や組閣の陣容を見て、やたら気が重くなった次第だ。
挙句、各社の世論調査では、高い内閣支持率が出ているようで、失望感すら感じている今日この頃となっている。
巷では、どじょう内閣だの泥臭い総理だのと、もてはやされているようだが、当ブログには泥まみれの内閣にしか到底見えない。
さしずめ、これまでの民主党政権から漏れ出た政治課題を、野田新総理がせっせと泥で塞いでいくということなのだろう。
残念ながら、これで日本の政治が当面停滞することは間違いないと、当ブログでは考えている。
もともと、民主党といえば、政治理念や政策、背景や利害関係等々、それぞれ異なる政党や政治家が、政権交代を目的に集まって構えた政党であり、与党となった今では、政権維持の為だけに政党の体を成している、言わば、はりぼての党だ。
政権を取るまでは、2大政党制を目指すとしたリベラルな看板を掲げてはいたものの、その実態は左右ごちゃまぜの翼賛政党であり、特に政権交代以降の外交、経済の両政策の迷走振りや、親小沢、反小沢の不毛な党内対立など、民主党の体質をよく現す事柄には枚挙にいとまが無い。
今回の閣僚人事を見ても、民主党体制を維持する為だけの組閣でしかなく、国民目線はおろか、政治的にもなんら一貫性の無い政権である事は一目瞭然だ。
そもそも、新自由主義者と増税主義者が党内のみならず閣内に存在している政権など、本来ありえない話であり、それこそ、党内融和などという言葉が平然と飛び交う政党なぞ、もはや政党としての意義を失っていると言わざるを得ない。
マニフェストを掲げて政権を取った以上、現実路線や妥協路線への政策転換を図るのであれば国民に信を問うか、そもそも意見が異なるのであれば党内を解体して、再編するのが本筋であるはずだ。
しかし民主党は、毎度の党首交代によって、党の本質的な問題点をうやむやにし、その責任を国民の目から逸らし続けているのだ。
そして今尚、そのような政党が、与党であり続けているのは、もはや異常事態としか言いようがない。
いずれにしても、様々な政治思想を抱えた翼賛内閣では、詰まるところ打算内閣としかなりえず、結局は、霞ヶ関の意のままに硬直した政治体制が続いていくことになるのだ。
これは、かつての自民党政権時代の末期と同じ流れとも言えなくもないのだが、民主党の場合、自民党以上に党内の政治カラーが混沌としているだけに、あらゆる批判や軋轢を飲み込んでしまう、言わばブラックホールと化した政党となってしまっている。
したがって、野党からしてみれば、与党が翼賛政党であればあるほど、政治的な対立軸を打ち出す余地を奪われることとなり、自民党のように判りやすいほどに右極化していくか、公明党のように信者頼みになるしか、もはや野党としての存在感を示せなくなりつつあるのだ。
それこそ、社民党や、現実路線に転換中の共産党などは、既に民主党にその存在感を飲み込まれたと言っても過言ではない。
このような与野党の関係に陥ってしまっては、政策的な論戦が望める訳もなく、結局のところ、スキャンダル追求に終始する永田町劇場が繰り返されることになるだけなのだ。
特に、今回の閣僚人事では脇の甘そうな人材がゴロゴロしているだけに、恐らく国会では相当に無駄な時間を費やすことになるのであろう。
しかし、それとて、民主党政権の延命をアシストすることでしかなく、決して国民の利益に繋がるものではない。
本来、政治家や政党は政策の実行とその結果で評価されるべき存在であると思うのだが、硬直し混沌とした政治体制となった今、人格面だけでその評価が決まるほどに、日本の政治は落ちぶれてしまっているのだ。
だとするならば、政党は、一体なんの為に存在するのか?
現行の国政において、政党の意義を失っているということは、議会制民主主義そのものが破綻していることを意味するに等しい。
選挙制度改革以前に、政党の在り様を正すことが、まずもって行わなければならないことなのだ。
そして現在、そのような政党政治の機能不全によって、国民生活の不満を政治が受け止めることが出来ず、ナショナリズムに流れ始めようとしている。
例えば欧米で見られるような、多くの国民の受け皿となるべく、いわゆる中道左派の政党が存在していないことが、日本の右傾化、保守化に拍車を掛けているのだ。
このようなバランスを欠いた、日本の政治体制は、更なる社会不安を招くことでしかない。
一刻も早く、あるべき政党政治を確立しなければならないのだ。
しかし、残念ながら、野田政権下では、それが叶う事は無いであろう。
それこそ、党内融和の如く与野党融和を謀るべく、自民、公明の主張を体よく取り入れていくことで、与野党間の争点を薄め、その翼賛体質をより強めていく可能性が高いと思われる。
わざわざ大連立を組んで、利害の調整に明け暮れるよりも、政策の争点を打ち消して野党を弱体化に追い込む方が、民主党にとっては都合がいいのだ。
まさに、国民不在の政治を推し進めることとなるであろう。
せっかく菅、鳩山前総理の稚拙な政治センスでもって、国民目線の政治課題が浮き彫りになったものが、野田総理によって、泥で埋め戻されることになる。
しかも、今度の総理は、菅、鳩山よりは、まさに狸の如く国民の目を欺くのに長け、保守回帰を目指さんとする政治家なのだ。
早速、原発対応や復興増税に関して、ダブルスタンダードな動きも見せ始めており、彼らの思惑を決して見過ごしてはならない。
少なくとも、任期一杯まで野田総理は、政権維持の為に、したたかにあらゆる手段を講じてくるであろう。
当ブログでは、その動向を注意深く見ていくつもりだ。
最後に「政党」の意味を引用してこの稿を終わりにしたい。
【政党】真の政党政治が来る日を切に望む。
共通の政治的主義・主張をもつ者によって組織され、一定の政治的利益や政策の実現のために活動し、政権獲得をめざす集団。
(大辞泉より)
ロンドンとお台場を繋ぐもの
ようやく沈静化しつつあるイギリスの大暴動だが、一連の暴動を見て思ったのは、決して対岸の火事では無いということだ。
極端な例を言えば、オックスフォード大学の学生と、大学の地元住民が会話を交わすことすら、まずあり得ない話なのである。
そのような固定化された階級社会を背景に、労働者階級の若者を中心とする貧困層の不満が爆発するような暴動が、これまでにもイギリスでは度々起きてきた。
ところが、今回の暴動には、上流階級や白人の若者も多く含まれており、これまでとは性質の異なる暴動に、イギリス政府もその対応に苦慮している様子が伺える。
思うに、今回の暴動は、階級社会に対する軋轢といった単純な動機ではなく、それぞれに異なった社会的ストレスを抱えている若者が、SNSを介して繋がっていき、やがてひとつのイベントとして暴動が目的化したのではないかと考えられる。
特に象徴的だったのが、ソニーの倉庫を火災に至らしめた暴動だ。
被害に遭った倉庫に置かれていたのは、むしろイギリスの若者が好むような音楽CDやDVDがその大半で、特にソニーに流通を委託していたインディーズレーベルが相当な損害を被ったと聞く。
この事からも、もはや目的と手段になんら合理性を持ち合わせていない、主張無き暴動だったということが見て取れる。
つまりは、失業、貧困、階級格差、世代間格差、人種差別等々、それこそ単なる若気の至りまで、それぞれ異なる動機がネット社会を介してひとつに繋がり、暴動という形でアウトプットされたに過ぎないのだ。
ただし、当ブログでは、それらの暴動を引き起こす動機に関して、二つの要因に大別できるのではないかと考える。
ひとつは、過去の暴動でも主な要因とされた、階級社会がもたらす労働者階級の若者の不満だ。
かつては、サッカーのフーリガンとして、その不満を発散していたものが、政府のフーリガン対策の強化によって、発散場所を失い、ガスが溜まっていたとも考えられる。
更には、行き場を失った一部のフーリガン達がストリートギャングとなって、より過激化したとも考えられるのではないだろうか。
そして、もうひとつの要因は、世代間格差によって生じた、若い世代全体に漂う閉塞感だ。
これは、不況によって世代間の所得差が固定化されてきたことで、若者の将来の展望が見えなくなっていることに起因しているのではないかと当ブログでは考えている。
世界的不況の中、大人世代が既得権(例えば地位や給与など)を守ろうとすることで、若者世代にその歪が襲い掛かっている構図だ。
上流階級の若者とて、将来が約束されているとは言い難いイギリスの経済や社会の状況がそこにはある。
これは、先進国で軒並み見られる傾向でもあり、若年層における失業率の増加がそれを表していると言えそうだ。
参考に若年層の国別の失業率を一覧にしてみたのでご覧いただきたい。
なんと、ほとんどの国で、全体の失業率に対して、若年層は実に2倍の失業率となっているのだ。
彼等が、将来像を描けないままに、社会に対して不満を抱くのも頷ける。
尚、失業率の集計年度は、主に2010年度データを使用しているが、データ収集の都合によって多少前後している国もあるので、何卒、ご容赦願いたい。

その他、若年層の失業に関して、言及している記事もあるので、併せてお読みいただきたい。
いずれにしろ、今回の暴動は、これまで階級社会によって保たれてきたイギリス社会の秩序を、若者を中心とするネット社会が凌駕したことを意味しており、若者に蔓延する社会に対する不満が新たな形となって現れた格好だ。
更に言えば、ヨーロッパ各国も、同じような火種を抱えており、いつ飛び火してもおかしくない状況であると当ブログでは考える。
無論、暴動そのものを肯定するつもりは毛頭無いが、SNSがもたらしたという意味では、中東のジャスミン革命と同様に新しい形の社会現象と言えよう。
こうした硬直化した社会構造を、ネット社会が揺るがす動きは、事の善悪を問わず、ますます世界に広がっていくものと考えられる。
さて、翻って日本の場合はどうなのか。
冒頭に対岸の火事ではないと述べたように、日本もまた、同じような火種を抱えている当事国であると考えられる。
世代間における格差の固定化、若年層における失業率の増加云々、欧米と比べれば、悲観的な数字ではないにしろ、着実に同じ傾向を歩んでいるのは、前出の失業率のデータを見ての通りだ。
ただし、日本でイギリスのような暴動が起きるのか?と問われれば、その答えは、やや早計である、ということになるだろう。
とはいえ、その一端を現すような現象は、日本国内でも見受けられるようになってきており、事態を注意深く見ていく必要はあると考えている。
今回、フジテレビに対して行われた抗議行動とイギリスで起こった暴動を比較してみると、本質的に共通した部分を見出すことができるのだが、いかがお考えだろうか。
特に強く感じるのは、極めて合理性の低いその行動パターンだ。
例えば、前述したソニーの倉庫火災しかり、今回の抗議行動もフジテレビが、たまたま槍玉に上がったようにしか思えてならない。
仮に、偏向報道に対する抗議行動とするならば、他にも偏ったメディアはいくらもあるし、それこそ今に始まったことではないのだが、何故にフジテレビで、何故に今のタイミングなのか、偏向報道へ抗議するにしては、いささか説得力を欠いた行動にしか見えないのだ。
ちなみに、偏向報道という点では、NHKや大手新聞の方が明らかに客観性を欠いており、公共の利益に反していると当ブログでは思うのだが、いかがだろうか?
話を戻すと、今回の参加者の様子を見ていても、右翼団体から、嫌韓思しき人々、単なる物見遊山で加わった人々など、偏向報道そのもに抗議しているようには到底思えない流れが見て取れた。
つまりは、それぞれ動機の異なる人々が、ネットを介し、フジテレビへの抗議行動を目的化して集まったという点で、イギリスで起こった暴動と同じような背景を感じる取ることができるのだ。
断っておくが、暴動は反社会的なものであり決して許される行為では無いが、抗議活動は合法的に行えば、社会運動として認められている行為だ、即ちこれを同義に扱う意図は無いので、誤解なきよう願いたい。
当ブログとしても、ネットを介した新たな繋がりでもって、社会運動を起こすことそのものには、多いにシンパシーを感じるのだが、イギリスの暴動や、フジテレビのへの抗議行動に見られるように、一貫した主義主張もさして見当たらず、単に利害が合致しただけで決起したような行動には、正直、異を唱えざるを得ない。中東のジャスミン革命とは、その目的も手段も似て非なるの物なのだ。
結局のところ、それは本質的な問題を反ってうやむやにしたままに、デモ参加者が個々に抱える不満を一時的に発散することにしかなりえないのだ。
実際、今回の抗議行動は、世間一般に認知を促したり促されるような進展も無く終了したことから、まさに、お台場に集まって行進することのみが目的化された、主張乏しき抗議行動であったことの一端が垣間見える。
果たして、仮にフジテレビが韓流寄りの放送を止めたとすれば、彼らの目的は達成され、不満が解消されることになるのだろうか?
とても、そうは思えないのだが...
イギリスの暴動や、フジテレビの抗議行動を見るにつけ、何かと物事を単純化し、善悪二元論で考えようとする、若い世代の思考傾向の強まりを感じる次第だ。
これは、ひとえに教育問題と経済問題が大きく関わってくる話になると思うのだが、これ以上は、話が長くなるので、機会があれば項を改めたいと思う。
いずれにしろ、社会が成熟していく過程での出来事として、ポジティブに捉えていきたいところなのだが、その道のりは、まだまだ遠いと感じる今日この頃だ。
若者たち、大義なき暴動イギリスという国は、日本が想像する以上に階級意識が強烈に強い国で、上流階級と労働者階級とでは、まったく別の社会意識を持っており、彼等が日常的に交流を持つような事はほとんどない。
「異なる(背景の)若者らが同じ行動を取るという新たな難題に直面している」。キャメロン英首相は11日の臨時議会で、事態を「新たなタイプの暴動」と位置づけた。今回の暴動は、英国が過去に経験した政治的不満や人種差別などを背景にした暴動とは異なり、動機や目的が不明瞭な「大義なき暴動」とも呼ばれている。
2011年8月14日(毎日新聞)
極端な例を言えば、オックスフォード大学の学生と、大学の地元住民が会話を交わすことすら、まずあり得ない話なのである。
そのような固定化された階級社会を背景に、労働者階級の若者を中心とする貧困層の不満が爆発するような暴動が、これまでにもイギリスでは度々起きてきた。
ところが、今回の暴動には、上流階級や白人の若者も多く含まれており、これまでとは性質の異なる暴動に、イギリス政府もその対応に苦慮している様子が伺える。
思うに、今回の暴動は、階級社会に対する軋轢といった単純な動機ではなく、それぞれに異なった社会的ストレスを抱えている若者が、SNSを介して繋がっていき、やがてひとつのイベントとして暴動が目的化したのではないかと考えられる。
特に象徴的だったのが、ソニーの倉庫を火災に至らしめた暴動だ。
被害に遭った倉庫に置かれていたのは、むしろイギリスの若者が好むような音楽CDやDVDがその大半で、特にソニーに流通を委託していたインディーズレーベルが相当な損害を被ったと聞く。
この事からも、もはや目的と手段になんら合理性を持ち合わせていない、主張無き暴動だったということが見て取れる。
つまりは、失業、貧困、階級格差、世代間格差、人種差別等々、それこそ単なる若気の至りまで、それぞれ異なる動機がネット社会を介してひとつに繋がり、暴動という形でアウトプットされたに過ぎないのだ。
ただし、当ブログでは、それらの暴動を引き起こす動機に関して、二つの要因に大別できるのではないかと考える。
ひとつは、過去の暴動でも主な要因とされた、階級社会がもたらす労働者階級の若者の不満だ。
かつては、サッカーのフーリガンとして、その不満を発散していたものが、政府のフーリガン対策の強化によって、発散場所を失い、ガスが溜まっていたとも考えられる。
更には、行き場を失った一部のフーリガン達がストリートギャングとなって、より過激化したとも考えられるのではないだろうか。
そして、もうひとつの要因は、世代間格差によって生じた、若い世代全体に漂う閉塞感だ。
これは、不況によって世代間の所得差が固定化されてきたことで、若者の将来の展望が見えなくなっていることに起因しているのではないかと当ブログでは考えている。
世界的不況の中、大人世代が既得権(例えば地位や給与など)を守ろうとすることで、若者世代にその歪が襲い掛かっている構図だ。
上流階級の若者とて、将来が約束されているとは言い難いイギリスの経済や社会の状況がそこにはある。
これは、先進国で軒並み見られる傾向でもあり、若年層における失業率の増加がそれを表していると言えそうだ。
参考に若年層の国別の失業率を一覧にしてみたのでご覧いただきたい。
なんと、ほとんどの国で、全体の失業率に対して、若年層は実に2倍の失業率となっているのだ。
彼等が、将来像を描けないままに、社会に対して不満を抱くのも頷ける。
尚、失業率の集計年度は、主に2010年度データを使用しているが、データ収集の都合によって多少前後している国もあるので、何卒、ご容赦願いたい。

その他、若年層の失業に関して、言及している記事もあるので、併せてお読みいただきたい。
若者の高失業率が世界にもたらす災い
2011年8月15日(英フィナンシャル・タイムズ/日本経済新聞)
高失業率に悩む欧州の若者
2011年8月3日(ウォール・ストリート・ジャーナル)
いずれにしろ、今回の暴動は、これまで階級社会によって保たれてきたイギリス社会の秩序を、若者を中心とするネット社会が凌駕したことを意味しており、若者に蔓延する社会に対する不満が新たな形となって現れた格好だ。
更に言えば、ヨーロッパ各国も、同じような火種を抱えており、いつ飛び火してもおかしくない状況であると当ブログでは考える。
無論、暴動そのものを肯定するつもりは毛頭無いが、SNSがもたらしたという意味では、中東のジャスミン革命と同様に新しい形の社会現象と言えよう。
こうした硬直化した社会構造を、ネット社会が揺るがす動きは、事の善悪を問わず、ますます世界に広がっていくものと考えられる。
さて、翻って日本の場合はどうなのか。
冒頭に対岸の火事ではないと述べたように、日本もまた、同じような火種を抱えている当事国であると考えられる。
世代間における格差の固定化、若年層における失業率の増加云々、欧米と比べれば、悲観的な数字ではないにしろ、着実に同じ傾向を歩んでいるのは、前出の失業率のデータを見ての通りだ。
ただし、日本でイギリスのような暴動が起きるのか?と問われれば、その答えは、やや早計である、ということになるだろう。
とはいえ、その一端を現すような現象は、日本国内でも見受けられるようになってきており、事態を注意深く見ていく必要はあると考えている。
フジテレビに4000人が韓流抗議デモ
フジテレビが韓国の番組を多く放送するなど番組編成が偏向しているとして21日、東京・台場に約4000人(主催者発表)が集まり、抗議活動が行われた。放送局へのデモとしては異例の大規模なものとなった。抗議活動は7日にもあった。
一団はフジ本社周辺で「韓国の番組を放送するな」などと抗議の声を上げた。一時、街宣車も参加し、騒然となった。代表となった30代の男性会社員によると、今後はテレビ局を管轄する総務省への抗議活動も検討しているという。
2011年8月22日(スポーツ報知)
今回、フジテレビに対して行われた抗議行動とイギリスで起こった暴動を比較してみると、本質的に共通した部分を見出すことができるのだが、いかがお考えだろうか。
特に強く感じるのは、極めて合理性の低いその行動パターンだ。
例えば、前述したソニーの倉庫火災しかり、今回の抗議行動もフジテレビが、たまたま槍玉に上がったようにしか思えてならない。
仮に、偏向報道に対する抗議行動とするならば、他にも偏ったメディアはいくらもあるし、それこそ今に始まったことではないのだが、何故にフジテレビで、何故に今のタイミングなのか、偏向報道へ抗議するにしては、いささか説得力を欠いた行動にしか見えないのだ。
ちなみに、偏向報道という点では、NHKや大手新聞の方が明らかに客観性を欠いており、公共の利益に反していると当ブログでは思うのだが、いかがだろうか?
話を戻すと、今回の参加者の様子を見ていても、右翼団体から、嫌韓思しき人々、単なる物見遊山で加わった人々など、偏向報道そのもに抗議しているようには到底思えない流れが見て取れた。
つまりは、それぞれ動機の異なる人々が、ネットを介し、フジテレビへの抗議行動を目的化して集まったという点で、イギリスで起こった暴動と同じような背景を感じる取ることができるのだ。
断っておくが、暴動は反社会的なものであり決して許される行為では無いが、抗議活動は合法的に行えば、社会運動として認められている行為だ、即ちこれを同義に扱う意図は無いので、誤解なきよう願いたい。
当ブログとしても、ネットを介した新たな繋がりでもって、社会運動を起こすことそのものには、多いにシンパシーを感じるのだが、イギリスの暴動や、フジテレビのへの抗議行動に見られるように、一貫した主義主張もさして見当たらず、単に利害が合致しただけで決起したような行動には、正直、異を唱えざるを得ない。中東のジャスミン革命とは、その目的も手段も似て非なるの物なのだ。
結局のところ、それは本質的な問題を反ってうやむやにしたままに、デモ参加者が個々に抱える不満を一時的に発散することにしかなりえないのだ。
実際、今回の抗議行動は、世間一般に認知を促したり促されるような進展も無く終了したことから、まさに、お台場に集まって行進することのみが目的化された、主張乏しき抗議行動であったことの一端が垣間見える。
果たして、仮にフジテレビが韓流寄りの放送を止めたとすれば、彼らの目的は達成され、不満が解消されることになるのだろうか?
とても、そうは思えないのだが...
イギリスの暴動や、フジテレビの抗議行動を見るにつけ、何かと物事を単純化し、善悪二元論で考えようとする、若い世代の思考傾向の強まりを感じる次第だ。
これは、ひとえに教育問題と経済問題が大きく関わってくる話になると思うのだが、これ以上は、話が長くなるので、機会があれば項を改めたいと思う。
いずれにしろ、社会が成熟していく過程での出来事として、ポジティブに捉えていきたいところなのだが、その道のりは、まだまだ遠いと感じる今日この頃だ。
日本クォリティ(最近の出来事について)
しばらく更新できなかった間にも、当然のことながら世の中は動いているわけで、その間の出来事についていくつか書き残しておきたいと思う。
事故の全貌が明らかになっているわけではないが、凡その流れとしては、落雷の発生によって、運行システムになんらかのトラブルが生じて列車の追突が起こったとされ、更には、直轄の鉄道省の拙速かつ隠蔽を伺わせる事故対応によって、国内外の非難を一斉に浴びたというものだった。
加えて、製造国の異なる列車を使って運行していた為に、そもそも運行システムに不備があったにも関わらず、国家の体裁を優先させたことが、事故を招いた要因になったとも言われている。
う~ん。
これって、つい最近、世界中を賑わせた、某国の原子力発電所の事故と、なんだか似てませんかね?
落雷は津波に、製造国の異なる高速列車はそのまま製造元の異なる原子炉に、運行システムは原子炉の冷却システムに、鉄道省は東京電力や原子力安全保安院にと、置き換えてみると見事なまでに合致する有様だ。
事故の矮小化、安全を軽視した合理化、隠蔽体質、利権、国家の体裁等々、そういえば、ショベルカーで車両を埋め、方やヘリコプターで水を撒き散らすなど、同じようにお粗末な映像を世界に配信したところまでそっくりではないか。
何より、国家、大企業の論理を優先し、国民に都合の悪い事実を隠そうとする体質は、中国も日本もたいして変わりはないということを、世界中に露呈してみせたと言えよう。
詰まる話、我々は中国クォリティを鼻で笑う資格など無いのである。
一連の報道から、これらの経緯が指し示しているものは、食品の安全管理体制の不備そのものである。
まず第一に、我々は検査体制にもっと厳しい目を向けなければならないし、また、内部被爆の影響の大きさを、もっと考慮しなければならないということだ。
更に、飼料である稲ワラが放射性物質に汚染されていたとするならば、露地栽培の野菜も同様に汚染されていた恐れがあるということも、覚悟しておかなければならないのである。
過去のエントリーでも取り上げたが、食品におけるこの国の残留放射能の安全基準値は、巧妙に上方に調整された数値となっている。
改めて調べてみて判った事なのだが、牛肉や穀類などには放射性ヨウ素131の基準値は、そもそも設定されてはいない。
どうやら半減期を勘案したためとしているようなのだが、この先、高濃度な汚染や新たな汚染が引き起こされる事態も想定できるだけに、やはり、基準値を設けてしかるべきではないのかと、大いに疑問を抱く次第だ。
この辺りにも、安全基準を少なく見積もりたい国の思惑が感じ取れてしまい、不信感だけが募っていく。
調べてみるに、日本の安全基準は、どうやらEUの基準値を指針にしているようなのだが、EU諸国の人々が、放射性能汚染の恐れがある食品を日常的に口にする機会は、日本より圧倒的に少ないのが現状だ。
例えば、チェルノブイリ原発事故が起きたウクライナでは、EUや日本よりはるかに厳しい安全基準が設けられている。
ちなみに、野菜に限って言えば、中国の安全基準値ですら、日本の安全基準値よりも厳しい数値となっており、日本国内で安全と言われている野菜も、中国では輸入禁止に相当する野菜となりえるのだ。
いかに日本の残留放射能の安全基準が、甘く設けられているのかを表している実に笑えない話だ。
そんな、著しく妥当性を欠いた国内の基準値ですら守れないとは、この国の食に関する安全管理体制は完全に破綻していると言わざるをえない。
もはや、自衛する以外に身を守る術は無いのが現実なのだ。
幼い子供を持つ親のことを考えると、本当に胸が痛くなってくる。
当ブログでは、原発事故の諸悪の根源は、いわゆる電源三法によるところが大きいと考えているのだが、そんな悪法を作ってまで原子力発電を推し進めたかった動機の一つが明らかになるニュースがあった。
まさに、アメリカ政府と、中曽根康弘、正力松太郎が描いていた、日本の核武装化の思惑が合致したことを示すニュースだ。
これが、日本における原子力発電を推し進めることになった、由緒正しき理由なのだ。
核の平和利用?
笑わせんじゃないよ!
一方で希望を感じるニュースも。
南相馬市の桜井市長と言えば、原発事故が発生した当時、事故の実態もわからず避難指示も出ない中、緊急報道番組で、市長自ら切実に住民の安全と政府の無策を訴えていた様子が思い起こされる。
更には、急な首相との会合より県知事との約束を優先して話題となった際には、首相に対して「一つのメッセージを出したら、最後まで責任と忍耐力を持った対応が必要」と語るなど、はっきり言って、菅総理よりもよっぽど総理大臣に相応しい人物なのではと思うお方だ。
今回の南相馬市及び桜井市長の決断を当ブログは全面的に支持したい。
以上、なにやら政局が動き出してきた感もある今日この頃、政治の動向も見極めつつ、まだ書き足りていない話もあるので、次回の更新時に続きとさせていただきたい。
中国鉄道事故 安全より国威発揚優先中国で起きた高速鉄道事故を巡る一連の出来事は、まさに中国クォリティを世界中に知らしめることとなった訳だが、それらを報じる日本のメディアの多くの論調は、ほとんどが上から目線で書かれているものばかりで、それこそ日本の新幹線を絶賛する記事まで現れるなど、呆れる報道姿勢ばかりが目立っていた。
20011年7月26日(毎日新聞:社説より)
事故の全貌が明らかになっているわけではないが、凡その流れとしては、落雷の発生によって、運行システムになんらかのトラブルが生じて列車の追突が起こったとされ、更には、直轄の鉄道省の拙速かつ隠蔽を伺わせる事故対応によって、国内外の非難を一斉に浴びたというものだった。
加えて、製造国の異なる列車を使って運行していた為に、そもそも運行システムに不備があったにも関わらず、国家の体裁を優先させたことが、事故を招いた要因になったとも言われている。
う~ん。
これって、つい最近、世界中を賑わせた、某国の原子力発電所の事故と、なんだか似てませんかね?
落雷は津波に、製造国の異なる高速列車はそのまま製造元の異なる原子炉に、運行システムは原子炉の冷却システムに、鉄道省は東京電力や原子力安全保安院にと、置き換えてみると見事なまでに合致する有様だ。
事故の矮小化、安全を軽視した合理化、隠蔽体質、利権、国家の体裁等々、そういえば、ショベルカーで車両を埋め、方やヘリコプターで水を撒き散らすなど、同じようにお粗末な映像を世界に配信したところまでそっくりではないか。
何より、国家、大企業の論理を優先し、国民に都合の悪い事実を隠そうとする体質は、中国も日本もたいして変わりはないということを、世界中に露呈してみせたと言えよう。
詰まる話、我々は中国クォリティを鼻で笑う資格など無いのである。
宮城県産牛、基準値超セシウムさらに1頭で検出牛肉の放射能汚染が止まらない。
2011年8月10日(河北新報)
一連の報道から、これらの経緯が指し示しているものは、食品の安全管理体制の不備そのものである。
まず第一に、我々は検査体制にもっと厳しい目を向けなければならないし、また、内部被爆の影響の大きさを、もっと考慮しなければならないということだ。
更に、飼料である稲ワラが放射性物質に汚染されていたとするならば、露地栽培の野菜も同様に汚染されていた恐れがあるということも、覚悟しておかなければならないのである。
過去のエントリーでも取り上げたが、食品におけるこの国の残留放射能の安全基準値は、巧妙に上方に調整された数値となっている。
改めて調べてみて判った事なのだが、牛肉や穀類などには放射性ヨウ素131の基準値は、そもそも設定されてはいない。
どうやら半減期を勘案したためとしているようなのだが、この先、高濃度な汚染や新たな汚染が引き起こされる事態も想定できるだけに、やはり、基準値を設けてしかるべきではないのかと、大いに疑問を抱く次第だ。
この辺りにも、安全基準を少なく見積もりたい国の思惑が感じ取れてしまい、不信感だけが募っていく。
調べてみるに、日本の安全基準は、どうやらEUの基準値を指針にしているようなのだが、EU諸国の人々が、放射性能汚染の恐れがある食品を日常的に口にする機会は、日本より圧倒的に少ないのが現状だ。
例えば、チェルノブイリ原発事故が起きたウクライナでは、EUや日本よりはるかに厳しい安全基準が設けられている。
ちなみに、野菜に限って言えば、中国の安全基準値ですら、日本の安全基準値よりも厳しい数値となっており、日本国内で安全と言われている野菜も、中国では輸入禁止に相当する野菜となりえるのだ。
いかに日本の残留放射能の安全基準が、甘く設けられているのかを表している実に笑えない話だ。
そんな、著しく妥当性を欠いた国内の基準値ですら守れないとは、この国の食に関する安全管理体制は完全に破綻していると言わざるをえない。
もはや、自衛する以外に身を守る術は無いのが現実なのだ。
幼い子供を持つ親のことを考えると、本当に胸が痛くなってくる。
当ブログでは、原発事故の諸悪の根源は、いわゆる電源三法によるところが大きいと考えているのだが、そんな悪法を作ってまで原子力発電を推し進めたかった動機の一つが明らかになるニュースがあった。
ビキニ被ばく受け原子力協力 米公文書、日本人は核に「無知」
1954年3月1日に太平洋ビキニ環礁で米国が行った水爆実験で静岡の漁船「第五福竜丸」が被ばくし、原水爆禁止が国民運動となる中、危機感を深めた当時のアイゼンハワー米政権が日本の西側陣営からの離反を憂慮、日本人の反核・嫌米感情を封じ込めようと、原子力技術協力を加速させた経緯が23日、米公文書から明らかになった。
共同通信が米国立公文書館で収集した各種解禁文書は、核に「無知」な日本人への科学技術協力が「最善の治療法」になるとして、原子力協力の枠組みや日本人科学者の米施設への視察受け入れを打ち出す過程を明記。
2011年7月23日(共同通信)
米、日本への核配備狙う 50年代、公文書に明記
米政府が、日本への原子力技術協力に乗り出した1950年代半ば、原子力の平和利用促進によって日本国民の反核感情を和らげた上で、最終的には日本本土への核兵器配備にこぎ着ける政策を立案していたことが4日、米公文書から分かった。
米公文書は、当面は核兵器配備に触れずに「平和利用」を強調することで、米核戦略に対する被爆国の「心理的な障壁」を打破できると指摘。米国の原子力協力は54年3月の第五福竜丸事件を機に本格化したが、米側に「日本への核配備」という隠れた思惑があった実態が浮かび上がった。
2011年8月4日(共同通信)
まさに、アメリカ政府と、中曽根康弘、正力松太郎が描いていた、日本の核武装化の思惑が合致したことを示すニュースだ。
これが、日本における原子力発電を推し進めることになった、由緒正しき理由なのだ。
核の平和利用?
笑わせんじゃないよ!
一方で希望を感じるニュースも。
南相馬市、新原発の交付金辞退へ 住民の安全を優先
東北電力の原発新規立地計画がある福島県南相馬市は、この計画に関連する「電源三法交付金」の受け取りを、今年度から辞退する方針を固めた。原発の見返りに自治体財政を潤してきた交付金だが、東京電力福島第一原発の事故で、自治体の判断にも変化が生じている。交付金よりも住民の安全を優先させた被災自治体の判断は、全国に広がる可能性がある。
2011年8月4日(朝日新聞)
南相馬市の桜井市長と言えば、原発事故が発生した当時、事故の実態もわからず避難指示も出ない中、緊急報道番組で、市長自ら切実に住民の安全と政府の無策を訴えていた様子が思い起こされる。
更には、急な首相との会合より県知事との約束を優先して話題となった際には、首相に対して「一つのメッセージを出したら、最後まで責任と忍耐力を持った対応が必要」と語るなど、はっきり言って、菅総理よりもよっぽど総理大臣に相応しい人物なのではと思うお方だ。
今回の南相馬市及び桜井市長の決断を当ブログは全面的に支持したい。
以上、なにやら政局が動き出してきた感もある今日この頃、政治の動向も見極めつつ、まだ書き足りていない話もあるので、次回の更新時に続きとさせていただきたい。
与謝野放言大臣
滅多に見ることのない報道ステーションをたまたま見ていたら、原発に関する与謝野経済財政担当大臣のコメントを放送している場面に出くわした。
その、あまりに非道な発言内容に、一瞬、はらわたが煮えくり返りそうになったのだが、よくよく考えてみると、むしろ自らを貶める放言を、わざわざ垂れ流している訳で、つくづく愚かな政治家なのだなと、改めて思いを強くした次第だ。
例えば、与謝野大臣によると、原発事故は科学的に予見出来ない事故であり、反省のしようがないと発言しているのだが、経産省管轄の原子力安全基盤機構という独法によって、昨年の時点で福島原発の危険性を指摘していたことが明らかになっており、この時点で大臣の話は破綻している。
更には、原子力発電でないと、国は豊かにはなれないとまで力説しており、原発事故の被害者に対する配慮は一切感じられず、事故そのものを正当化する勢いだ。
豊かさの為なら、一部の人達の理不尽な犠牲も当然ということなのだろうか?
こうした発言から垣間見える彼の人間性には、背筋が凍る思いすらする。
いずれにしろ、彼は、貧しくなることを恐れているようだが、すでに自分の心が貧しくなっていることに気づくことはあるのだろうか。
このような人間が、脱原発を掲げていい気になっている菅総理の下で大臣を務めているのだ。
ストレステストをやる前に、大臣の首を切ることの方が、よっぽど先だ。
そんな訳で、いずれ削除されるであろうが、それまで、与謝野大臣の放言をここに晒しておく。
経団連もそうだけど、電力供給が減れば経済活動も落ち込んでしまうと、やたら国民に脅しをかけまくっているが、そんなものは既得権を守りたいが故の方便でしかない。
むしろ、蓄電技術や省電力技術のイノーベーションを起こす絶好の機会な訳で、とっとと大企業には海外移転でもしてもらった方が良いとさえ思っている。そうすれば、おのずと既得権は消滅し、新たな産業や経済活動が生まれ易くなるというものだ。
政治のみならず、経済界にも革命を起こす必要が高まっている。
その、あまりに非道な発言内容に、一瞬、はらわたが煮えくり返りそうになったのだが、よくよく考えてみると、むしろ自らを貶める放言を、わざわざ垂れ流している訳で、つくづく愚かな政治家なのだなと、改めて思いを強くした次第だ。
例えば、与謝野大臣によると、原発事故は科学的に予見出来ない事故であり、反省のしようがないと発言しているのだが、経産省管轄の原子力安全基盤機構という独法によって、昨年の時点で福島原発の危険性を指摘していたことが明らかになっており、この時点で大臣の話は破綻している。
更には、原子力発電でないと、国は豊かにはなれないとまで力説しており、原発事故の被害者に対する配慮は一切感じられず、事故そのものを正当化する勢いだ。
豊かさの為なら、一部の人達の理不尽な犠牲も当然ということなのだろうか?
こうした発言から垣間見える彼の人間性には、背筋が凍る思いすらする。
いずれにしろ、彼は、貧しくなることを恐れているようだが、すでに自分の心が貧しくなっていることに気づくことはあるのだろうか。
このような人間が、脱原発を掲げていい気になっている菅総理の下で大臣を務めているのだ。
ストレステストをやる前に、大臣の首を切ることの方が、よっぽど先だ。
そんな訳で、いずれ削除されるであろうが、それまで、与謝野大臣の放言をここに晒しておく。
経団連もそうだけど、電力供給が減れば経済活動も落ち込んでしまうと、やたら国民に脅しをかけまくっているが、そんなものは既得権を守りたいが故の方便でしかない。
むしろ、蓄電技術や省電力技術のイノーベーションを起こす絶好の機会な訳で、とっとと大企業には海外移転でもしてもらった方が良いとさえ思っている。そうすれば、おのずと既得権は消滅し、新たな産業や経済活動が生まれ易くなるというものだ。
政治のみならず、経済界にも革命を起こす必要が高まっている。
考えよう!日本
内閣不信任案の一件以来、永田町は一進一退が続いている。
居直り総理と化した菅直人に対して、野党や民主党内の反菅勢力も、手持ちのカードを失っているようにも見える。
内閣不信任案を声高に叫んでいた威勢の良さはどこへやら、総理の予想外のアドリブによって、拳を振り上げた野党の猿芝居を演出できる者がいなくなったということなのか。
思うに、自民党にしろ民主党にしろ、それぞれ電力会社関連の支持を受けている政党だけに、居直りだか開き直りだか菅総理のように軽々しく脱原発と言えない、ジレンマを抱えているのが本当のところだろう。
単なる政局争いというよりは、電力行政を巡る覇権争いがその内実だと考える。
そんな訳で、反菅勢力にしてみれば、仮に菅内閣を退陣に追い込み新政権が出来たとしても、原発の方針は、国民の最大の関心事であることに変わりは無く、脱原発の世論がある中で、東電擁護の本音を隠し通すのも、なかなか至難の技だ。
それこそ、解散でもしようものなら、原発に対する姿勢が選挙に大きく影響するだけに、藪蛇になりかねない。
要は、菅総理を批判できても脱原発とは言えない菅降ろし勢力の弱腰っぷりが、政治の膠着状態を招いていると考えるのだがいかがだろうか。
今後は、脱原発的なパフォーマンスを菅総理に好きなだけ演じさせておいて、夏の電気が足りませんキャンペーンで、原発容認の流れを形成して退陣に追い込み、原発推進勢力による連立政権がそれとなく誕生する動きとなるのではないかと考えている。
つまりは、東京電力は守られ、原子力発電は稼動し、民意だけはぐらかされ、そしてその代償は国民が背負い続けるという、最悪の政治が続くのである。
で、問題はそのような事態を国民が許すのか許さないのかということだ。
永田町的には、原発問題が選挙の争点になるのは避けたいところであろうから、総選挙の可能性はかなり低いだろうし、更に言えば、前回のエントリーで触れた国民投票などは、実現不可能な現状だ。
つまり、日本の行く末に関わる原発問題について、民意を反映する国政の場も無いまま、原発行政が推し進められる可能性が高いということなのだ。
さてさて、どうしたものか。
で、一計を案じてみた。
今回の原発事故で、日本は、計り知れない損害を被った訳で、その被害者が国民であることはなによりも明白だ。
かつてのエントリーでも触れたが、事故を人災とするならば、国や東電の過失責任は問われるべき話となり、被害者に対する賠償責任も当然生じることになる。
避難生活を余儀なくされている人々は勿論のこと、風評被害に苦しんでいる人々や、不安を感じている妊婦や幼い子供を抱えている人々など、被害を受けている全ての国民に対して、国と東電は責任を負わなければいけないのだ。
しかし、民意を示す機会が無い状態がこのまま続けば、恐らく、政治と電力会社は、事故の責任や原発の問題点をうやむやにして、密かに原発推進に向けて事態の進展を図ろうとするであろう。
というか、既に節々でそのような動きも出始めている。
であるならば、国民が政治に物申す手段としては、国と東京電力を相手取って、原子力発電所の運転差し止めと損害賠償の請求を訴える集団訴訟しか残されていないように思うのだが、いかがだろうか。
過小な安全基準や原発事故の対応の不手際。更には、諸悪の根源ともいえる自治体の弱みに漬け込む電源三法、その他、国民のあずかり知らぬところで、国と電力会社が進めてきたこれまでの原発行政を、司法の場で白日の下に晒し、その上で、原子力発電をどうしていくのか、国民的議論の場を作らなければならないと考える次第だ。
我々は、マスコミの情報に一喜一憂するのも、政治家にリーダーシップを求めるのも、いい加減卒業しなければいけない。
今回の原発事故でも、はっきりしたことは、国家は国民の健康と安全を第一に考えてくれる訳ではないし、会社だって社員に対して同じような仕打ちを平気でするのだ。
安全と健康は自分自身で守っていくしかないのだ。
しかし、一人だけで、守れることができもないのも現実だ。
だからこそ、皆で安全と健康を担保できる社会を、我々自身の手で作っていかなければいけないということなのだ。
残念ながら、今の日本社会が、そのような社会とは到底思えないし、更にこのままではもっと酷くなるようにしか思えてならない。
それを変えられるのは、国民一人一人が、変わっていくしか他はないのだ。
居直り総理と化した菅直人に対して、野党や民主党内の反菅勢力も、手持ちのカードを失っているようにも見える。
内閣不信任案を声高に叫んでいた威勢の良さはどこへやら、総理の予想外のアドリブによって、拳を振り上げた野党の猿芝居を演出できる者がいなくなったということなのか。
思うに、自民党にしろ民主党にしろ、それぞれ電力会社関連の支持を受けている政党だけに、居直りだか開き直りだか菅総理のように軽々しく脱原発と言えない、ジレンマを抱えているのが本当のところだろう。
単なる政局争いというよりは、電力行政を巡る覇権争いがその内実だと考える。
そんな訳で、反菅勢力にしてみれば、仮に菅内閣を退陣に追い込み新政権が出来たとしても、原発の方針は、国民の最大の関心事であることに変わりは無く、脱原発の世論がある中で、東電擁護の本音を隠し通すのも、なかなか至難の技だ。
それこそ、解散でもしようものなら、原発に対する姿勢が選挙に大きく影響するだけに、藪蛇になりかねない。
要は、菅総理を批判できても脱原発とは言えない菅降ろし勢力の弱腰っぷりが、政治の膠着状態を招いていると考えるのだがいかがだろうか。
今後は、脱原発的なパフォーマンスを菅総理に好きなだけ演じさせておいて、夏の電気が足りませんキャンペーンで、原発容認の流れを形成して退陣に追い込み、原発推進勢力による連立政権がそれとなく誕生する動きとなるのではないかと考えている。
つまりは、東京電力は守られ、原子力発電は稼動し、民意だけはぐらかされ、そしてその代償は国民が背負い続けるという、最悪の政治が続くのである。
で、問題はそのような事態を国民が許すのか許さないのかということだ。
永田町的には、原発問題が選挙の争点になるのは避けたいところであろうから、総選挙の可能性はかなり低いだろうし、更に言えば、前回のエントリーで触れた国民投票などは、実現不可能な現状だ。
つまり、日本の行く末に関わる原発問題について、民意を反映する国政の場も無いまま、原発行政が推し進められる可能性が高いということなのだ。
さてさて、どうしたものか。
で、一計を案じてみた。
今回の原発事故で、日本は、計り知れない損害を被った訳で、その被害者が国民であることはなによりも明白だ。
かつてのエントリーでも触れたが、事故を人災とするならば、国や東電の過失責任は問われるべき話となり、被害者に対する賠償責任も当然生じることになる。
避難生活を余儀なくされている人々は勿論のこと、風評被害に苦しんでいる人々や、不安を感じている妊婦や幼い子供を抱えている人々など、被害を受けている全ての国民に対して、国と東電は責任を負わなければいけないのだ。
しかし、民意を示す機会が無い状態がこのまま続けば、恐らく、政治と電力会社は、事故の責任や原発の問題点をうやむやにして、密かに原発推進に向けて事態の進展を図ろうとするであろう。
というか、既に節々でそのような動きも出始めている。
であるならば、国民が政治に物申す手段としては、国と東京電力を相手取って、原子力発電所の運転差し止めと損害賠償の請求を訴える集団訴訟しか残されていないように思うのだが、いかがだろうか。
過小な安全基準や原発事故の対応の不手際。更には、諸悪の根源ともいえる自治体の弱みに漬け込む電源三法、その他、国民のあずかり知らぬところで、国と電力会社が進めてきたこれまでの原発行政を、司法の場で白日の下に晒し、その上で、原子力発電をどうしていくのか、国民的議論の場を作らなければならないと考える次第だ。
我々は、マスコミの情報に一喜一憂するのも、政治家にリーダーシップを求めるのも、いい加減卒業しなければいけない。
今回の原発事故でも、はっきりしたことは、国家は国民の健康と安全を第一に考えてくれる訳ではないし、会社だって社員に対して同じような仕打ちを平気でするのだ。
安全と健康は自分自身で守っていくしかないのだ。
しかし、一人だけで、守れることができもないのも現実だ。
だからこそ、皆で安全と健康を担保できる社会を、我々自身の手で作っていかなければいけないということなのだ。
残念ながら、今の日本社会が、そのような社会とは到底思えないし、更にこのままではもっと酷くなるようにしか思えてならない。
それを変えられるのは、国民一人一人が、変わっていくしか他はないのだ。
国民投票に清き一票を
結局あの内閣不信任案の騒動は一体なんだったのか。
国民不在の政局争いは、むしろ政治の膠着状態を招いたに過ぎず、うがった見方をするならば、あのタイミングで政局劇を起こさなければならない、何か他の理由があったということなのだろうか。
それほどに、内閣不信任案を巡る顛末は、全くと言っていいほど、無意味で生産性のない出来事だった。
未だに続く、不毛な政治の駆け引きを見るにつけ、本気で震災対策と原発問題を取り組もうという政治家は、果たしているのだろうか?
そんな最中、イタリアでは国民投票が行われ、大差で原発反対の民意が示された。
食文化、芸術、ファッション、スポーツ、歴史等々、世界的注目を集める独自の文化を持っている一方で、政治腐敗、失業、さらには多額の借金を抱える、いわばトンデモ(なんたってベルルスコーニ首相だもの)国家でもある。
にも関わらず、ヨーロッパを代表する国として、その地位が揺らぐこともなく、イタリア国民の暮らし振りぶりも至って陽気な印象しかない。
一方の日本も、世界に注目される独自文化を持ちながら、政治は停滞し、未だ不況真っ只中の借金大国だ。
その他にも、風土やかつてファシズムを生んだ近代史(旧同盟国でもあった)を持つなど、日本とイタリアは結構似た者同士の国と言える。
ただし、自殺率だけは大きく異なっている。
例えば、一人当たりのGDPや失業率は日本よりイタリアの方が低いのに、自殺率を見ると、なんと日本はイタリアの実に4倍もの数字となっている。
日本の自殺の主な理由は、仕事や経済的事由と言われているが、イタリアの方が数字の上で生活が苦しいはずなのに、一体この差はどこから生まれてくるのだろうか。
そんな中、先日、原発の影響を受けて自ら命を絶った福島のある酪農家の報道がなされていた。
亡くなった方が経済的に追い込まれていたのだとすれば、即ちそれは原発の影響であろうと想像はできるのだが、それらが自殺の要因だったとしても、自殺をする本質的な原因はもっと別なところにあるはずなのだ。
それこそ、このニュースをイタリア人が見ていたら、なんと思うのだろうか。
で、何が言いたいのかというと、イタリア人は、例え政治腐敗や不況があろうとも、更には不条理なことが身の回りで起ころうとも、自殺を選択せず、その国で、その地で陽気に生きる術を持っているということだ。
そもそも、ヨーロッパの歴史とは、侵略の歴史だ。
国や権力者の都合によって、世の中がコロコロと変わり、民衆の土地や財産が奪われることも珍しくはなかった。
多くのヨーロッパの人々には、そういった混乱の中を暮らし、生き抜いてきた歴史と知恵によって生まれた人生観や社会概念がある。
今の日本から見れば、学ぶべき事が一杯あるように思えるのだが、いかがだろうか。
そして、そんなイタリア国民が、海の向こうで起きた原発事故を受けて、原発反対の意思を圧倒的多数で示して見せたのだ。
この意味の大きさを、我々日本人はもっと噛み締めなければならないと思う。
改まって言うことでもないが、民主主義を否定していることに、まるで気づいていない愚かな政治家だ。
それにしても、国民投票がある国はなんとも羨ましい。
一応日本もあるにはあるが、それは憲法改正のみで、その運用方法には多くの問題を孕んだままだ。
ただ、それとは別に、今の体たらくな政治情勢が続くのであれば、せめて重要法案だけでも、国民投票制にして、国民が直接的に国政に関わる機会を設けてはどうだろうか。
本来、議会制民主主義が機能していれば、そんな必要もないのだろうが、もはや政党政治の体をなさず、政治家がイス獲り合戦に明け暮れているようであれば、今の日本の政治にとって、政党も政治家も無用な存在でしかない。
そんな政治を続けていれば、政治に無知な政治家ばかりが増えていくのも当たり前の話で、逆に言うと国民も政治に対して無知に陥ってしまうということになる。
最近、やたらリーダーシップを求める声が多いのも、その影響だと当ブログでは考える次第だ。
それこそ国民主権とは程遠い話だ。
そもそも、今の日本の議会政治はイギリスをモデルとし、戦後、アメリカの手によってマイナーチェンジが図られたものだ。
ファシズムを生み出さないように、そして、アメリカの政治意向が反映しやすいように、ところどころで骨抜きにされた仕組みになっている。
つまりは、政治の意思決定のプロセスが不明瞭かつ責任の所在も曖昧で、大きな政治決断が出来にくい仕組みであると言える。
日本が混迷期に入ってから、政権交代が起きても尚、短命政権が続いているのも、議員内閣制の制度上の欠陥が招いている部分もあると考えられる。
長年日本の政治は、第一に多数党であることが是とされる政治が求められ、政治理念や政策提案よりも、多数派工作に長けた政治家が幅を利かせてきた。
その結果、多数党は、右から左まで、あらゆる政治思想を抱えることになり、有権者からしてみれば、政治選択の余地が無いままに、戦後から今に至るまで、日本の政治が続いてきたということになる。
景気も良く、社会に勢いがある時であれば、中身の無い政治でも国は動いていけたが今は違う。
いわゆる国難と言われ、政治そのものが機能していかなければ、国が動かない状態なのだ。
ならば、無能な政治家に代わって、国民が重要な政治課題に直接判断を下せば良い話ではないのか?
原発やエネルギー問題に直面しているのは国民そのものだ。
仮に国民が判断を誤るようなことがあれば、国民がそのツケを払えばいい。
その緊張感たるや、国民がより政治に関心を持ち、知恵を持つようになるきっかけになるはずだ。
少なくとも、政治家の失政のツケを国民が払うのは、もう勘弁願いたい。
一刻も早く、政策を決めて進んでいかなければいけない時に、政治家のイス獲り合戦に付き合っている暇なぞ無いのだ。
政治家の皆さんには、国民主権の意味を、今一度よく考えてみて欲しい。
国民不在の政局争いは、むしろ政治の膠着状態を招いたに過ぎず、うがった見方をするならば、あのタイミングで政局劇を起こさなければならない、何か他の理由があったということなのだろうか。
それほどに、内閣不信任案を巡る顛末は、全くと言っていいほど、無意味で生産性のない出来事だった。
未だに続く、不毛な政治の駆け引きを見るにつけ、本気で震災対策と原発問題を取り組もうという政治家は、果たしているのだろうか?
そんな最中、イタリアでは国民投票が行われ、大差で原発反対の民意が示された。
原発凍結賛成は94% イタリア国民投票、開票終わるイタリアといえば、ヨーロッパの中でも日本との共通点が見出しやすい国の一つだ。
原発再開の是非を問うイタリアの国民投票は14日朝までに開票がすべて終了し、原発反対派の票が9割以上を占めて圧勝した。東京電力福島第一原発事故後に欧州で広がる反原発世論の強さが示された。 イタリア内務省によると、在外投票分も含めて開票が全て終わり、原発凍結賛成票が94.05%を占めた。凍結反対票は5.95%。投票率は54.79%に達した。 原発再開を模索していたベルルスコーニ首相は13日夜、「政府と議会は結果を歓迎する義務がある。高い投票率は、自分たちの未来に関する決断に参加したいというイタリア国民の意思の表れで、無視できない」とする声明を発表。「国民投票は複雑な問題を扱うには適さないと信じてはいるが、それでも国民の意思は明らかになった」とし、原発の新設や再稼働を当面断念する意向を表明した。
2011年6月15日(朝日新聞)
食文化、芸術、ファッション、スポーツ、歴史等々、世界的注目を集める独自の文化を持っている一方で、政治腐敗、失業、さらには多額の借金を抱える、いわばトンデモ(なんたってベルルスコーニ首相だもの)国家でもある。
にも関わらず、ヨーロッパを代表する国として、その地位が揺らぐこともなく、イタリア国民の暮らし振りぶりも至って陽気な印象しかない。
一方の日本も、世界に注目される独自文化を持ちながら、政治は停滞し、未だ不況真っ只中の借金大国だ。
その他にも、風土やかつてファシズムを生んだ近代史(旧同盟国でもあった)を持つなど、日本とイタリアは結構似た者同士の国と言える。
ただし、自殺率だけは大きく異なっている。
例えば、一人当たりのGDPや失業率は日本よりイタリアの方が低いのに、自殺率を見ると、なんと日本はイタリアの実に4倍もの数字となっている。
| GDP(国民一人当たり) | 失業率 | 自殺率(10万人当たり) | |
|---|---|---|---|
| イタリア | 34,860.72㌦ | 8.4% | 6.3人 |
| 日本 | 42,820.39㌦ | 5.1% | 24.0人 |
日本の自殺の主な理由は、仕事や経済的事由と言われているが、イタリアの方が数字の上で生活が苦しいはずなのに、一体この差はどこから生まれてくるのだろうか。
そんな中、先日、原発の影響を受けて自ら命を絶った福島のある酪農家の報道がなされていた。
相馬の酪農家自殺、「原発なければ」と書き残しなんとも痛ましいニュースではあるが、これをすべて原発が原因の如く単純化して、センセーショナルに伝えようとする報道には正直違和感を覚えた。
福島第一原発の事故で、牛を処分して廃業した福島県相馬市の酪農家男性(50歳代)が「原発さえなければ」と書き残して自殺していたことが13日、わかった。
2011年6月14日(読売新聞)
亡くなった方が経済的に追い込まれていたのだとすれば、即ちそれは原発の影響であろうと想像はできるのだが、それらが自殺の要因だったとしても、自殺をする本質的な原因はもっと別なところにあるはずなのだ。
それこそ、このニュースをイタリア人が見ていたら、なんと思うのだろうか。
で、何が言いたいのかというと、イタリア人は、例え政治腐敗や不況があろうとも、更には不条理なことが身の回りで起ころうとも、自殺を選択せず、その国で、その地で陽気に生きる術を持っているということだ。
そもそも、ヨーロッパの歴史とは、侵略の歴史だ。
国や権力者の都合によって、世の中がコロコロと変わり、民衆の土地や財産が奪われることも珍しくはなかった。
多くのヨーロッパの人々には、そういった混乱の中を暮らし、生き抜いてきた歴史と知恵によって生まれた人生観や社会概念がある。
今の日本から見れば、学ぶべき事が一杯あるように思えるのだが、いかがだろうか。
そして、そんなイタリア国民が、海の向こうで起きた原発事故を受けて、原発反対の意思を圧倒的多数で示して見せたのだ。
この意味の大きさを、我々日本人はもっと噛み締めなければならないと思う。
石原幹事長:「集団ヒステリー状態」と発言 原発見直しで石原伸晃という政治家は、イタリアの民意をなんと心得ているのだろうか?
自民党の石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、東京電力福島第1原発事故を踏まえた原子力政策の見直しについて「あれだけ大きなアクシデントがあったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」と述べた。代替エネルギー確保の観点から「脱原発」の難しさを指摘した発言だが、表現が不適切と批判される可能性がある。石原氏は原発再開を巡るイタリアの国民投票を念頭に「国民投票で9割が反原発(だったので)、やめようという簡単な問題ではない」とも述べた。
2011年6月14日(毎日新聞)
改まって言うことでもないが、民主主義を否定していることに、まるで気づいていない愚かな政治家だ。
それにしても、国民投票がある国はなんとも羨ましい。
一応日本もあるにはあるが、それは憲法改正のみで、その運用方法には多くの問題を孕んだままだ。
ただ、それとは別に、今の体たらくな政治情勢が続くのであれば、せめて重要法案だけでも、国民投票制にして、国民が直接的に国政に関わる機会を設けてはどうだろうか。
本来、議会制民主主義が機能していれば、そんな必要もないのだろうが、もはや政党政治の体をなさず、政治家がイス獲り合戦に明け暮れているようであれば、今の日本の政治にとって、政党も政治家も無用な存在でしかない。
そんな政治を続けていれば、政治に無知な政治家ばかりが増えていくのも当たり前の話で、逆に言うと国民も政治に対して無知に陥ってしまうということになる。
最近、やたらリーダーシップを求める声が多いのも、その影響だと当ブログでは考える次第だ。
それこそ国民主権とは程遠い話だ。
そもそも、今の日本の議会政治はイギリスをモデルとし、戦後、アメリカの手によってマイナーチェンジが図られたものだ。
ファシズムを生み出さないように、そして、アメリカの政治意向が反映しやすいように、ところどころで骨抜きにされた仕組みになっている。
つまりは、政治の意思決定のプロセスが不明瞭かつ責任の所在も曖昧で、大きな政治決断が出来にくい仕組みであると言える。
日本が混迷期に入ってから、政権交代が起きても尚、短命政権が続いているのも、議員内閣制の制度上の欠陥が招いている部分もあると考えられる。
長年日本の政治は、第一に多数党であることが是とされる政治が求められ、政治理念や政策提案よりも、多数派工作に長けた政治家が幅を利かせてきた。
その結果、多数党は、右から左まで、あらゆる政治思想を抱えることになり、有権者からしてみれば、政治選択の余地が無いままに、戦後から今に至るまで、日本の政治が続いてきたということになる。
景気も良く、社会に勢いがある時であれば、中身の無い政治でも国は動いていけたが今は違う。
いわゆる国難と言われ、政治そのものが機能していかなければ、国が動かない状態なのだ。
ならば、無能な政治家に代わって、国民が重要な政治課題に直接判断を下せば良い話ではないのか?
原発やエネルギー問題に直面しているのは国民そのものだ。
仮に国民が判断を誤るようなことがあれば、国民がそのツケを払えばいい。
その緊張感たるや、国民がより政治に関心を持ち、知恵を持つようになるきっかけになるはずだ。
少なくとも、政治家の失政のツケを国民が払うのは、もう勘弁願いたい。
一刻も早く、政策を決めて進んでいかなければいけない時に、政治家のイス獲り合戦に付き合っている暇なぞ無いのだ。
政治家の皆さんには、国民主権の意味を、今一度よく考えてみて欲しい。
不信任案を出したいのはこっちの方だ!
内閣不信任決議案を否決 衆院本会議前回のエントリーで、内閣不信任案の提出は愚行だと書いたのだが、実際のところは、その愚行の上に更なる愚行を上塗りして否決に至るという、極めて非生産的な政局に終始して終わった。
自民、公明、たちあがれ日本の各党が提出した菅内閣に対する不信任決議案は、2日午後の衆院本会議で民主党などが反対し、反対293票、賛成152票で否決された。
(2011年6月2日 朝日新聞)
小沢一郎の目論見は外れ、菅直人は妥協し、鳩山由紀夫は迷走し続け、谷垣禎一はピエロ役を演じ、結局のところ誰一人得をしない、あまりに酷い茶番劇に国民を付き合わせたということになる。
希望が一番必要な肝心な時に、国民に大いなる失望を与えた政治家の責任はとてつもなく重い。
これで、日本の政治状況は混迷の一途を歩んでいくような気がしてならない。
今回の一連の政局は、小沢一郎が仕掛けた揺さぶりに、菅直人が解散をチラつかせて最後まで抵抗し、慌てた鳩山由紀夫が妥協案で手を打ったというのが、大体のところだろう。でもって、谷垣禎一は終始躍らされていたということになる。
まさに、登場人物それぞれの本性が見事に詰まった顛末としか言いようがない。
鳩山由紀夫に至っては、党代議士会で「党がバラバラに見えてしまっては国民から『何をやっているのか』とそしりをまぬがれない。」などと発言したようだが、誰がどう見ても既に民主党はバラバラだろ!と皆で突っ込みを入れたのではないだろうか。
そういった意味でも、菅直人は妥協するべきではなかった。というよりも妥協する必要すらなかったと思う。
結局、最後の最後で妥協する浅ましい人間性を、菅直人は証明したに過ぎない。
そして、数の論理で揺さぶりをかけた小沢一郎は、とどのつまり数の論理で敗北を喫したことになる。
かつては必殺パンチを放っていたかもしれないが、今となっては老いぼれたボクサーでしかないのだ。
常々思っていたのだが、決して繰り出されることのないパンチに、なぜに期待を寄せるのか不思議で仕方がなかった。
何より、政治理念や政策よりも、数や力を優先する政治家を誰が信じようと言うのだ。
これを機会に、鳩ぽっぽ共々政界から即刻身を引いていただきたい。
理念無き政治家に、日本の未来を預けることなど出来るわけがない。
いやもう、はっきり言って、政治家全員に不信任案を出したいのはこっちの方なのだ。
今の政治体制が続くかと思うと、暗澹たる気持ちしか出てこない。
本当は、それではいけないのだが、どうか今日一日だけはお許しいただきたい。
臭い物には?
震災や原発事故をも政局に利用しようという、政治家の卑しい本性が露になってきた。
それもそのはずで、民主党の小沢グループの動きに対して敏感に反応し、秋波を送り合っているにしか過ぎず、そもそも不信任案に値する根拠など持ち合わせていないからだ。
彼らの目的は、菅総理を引きずり下ろすことにあり、今回の内閣不信任案提出の動きからは復興とはおよそかけ離れた政治家の思惑しか透けて見えてこない。
どうせ永田町のことなので、菅政権のままでは都合が悪い政治勢力が裏で糸を引いているのだろうが、はっきり言ってそんなことをしている暇は無いはずだ。
一刻も早く第二次補正予算の審議に入って、復興の道筋を示さなければならない時に、政治は一体何をしているのだろうか?
今回の震災や原発事故に対する政府の不十分な対応が、すべて菅総理の責任のように見えてしまうのは、悲しいかな彼自身の総理としての資質に関わる話ではあるが、そこが本質的な問題なのではない。
本質的な問題は、政府や国が、長年に渡って国家の危機管理を怠ってきた歴史そのものであり、その責任は歴代の政権とそれに携わってきた官僚達がまず問われるべき話なのである。
本来、政権や総理大臣が代わろうと、国家の危機管理体制は維持されるものでなければならないはずだが、この国は政権が変わっただけで、中国の漁船一隻が起こした出来事で国が揺らいでしまうほど、脆弱な危機管理体制しか、そもそも持ち合わせていなかったというのが現状なのだ。
今度の原発事故の注水騒動ひとつ取っても、情報と指示の連絡系統がまったく機能していないことを露呈したに過ぎず、総理の責任を問う前に、危機管理の不備を招いている国家の体質を見直していかなければ、また、同じ過ちを繰り返すことになるだけの話だ。
これは、自民党政権が長らく続いたことによって、領土問題しかり、普天間基地しかり、原発問題しかり、厄介な問題はすべて先送りにし、本質的に向き合おうとせず誤魔化してきた長年のツケが、ただ単に表面化している出来事にしか過ぎないのだ。
いくら臭い物に蓋をしようとも、臭いの元を取り除かなければ、いずれまた臭いが立ち篭るのは当たり前の話で、国民もさすがにその臭いに耐えきれず、民主党に政権を代えてみたら、一気に蓋が外れて悪臭が漏れ出したというのが、現在の日本の姿なのである。
まさに、福島第一原発の事故によって、日本中に放射能がばら撒かれた出来事と重なるのは、単なる偶然ではないはずだ。
確かに、もう少し蓋の外しようがあるのも事実だが、だからといって、蓋を外した民主党や菅総理の責任を問い詰めてみたところで、臭いが消えて無くなるわけではない。
したがって、今回の野党と民主党の造反グループの動きによって、仮に菅内閣が退陣に追い込まれるようなことになれば、結局のところ、また蓋を被せて問題を先送りにしようとするに等しい愚行であると、当ブログでは強く指摘しておく。
これまでは、そうやって国民の不満や批判の矛先を誤魔化すことは出来たかもしれないが、こと原発問題に関しては、もはや誤魔化しようがないレベルの問題となっているのだ。
我々は放射能に汚染された日本から逃れることは出来ないのである。
否でも応でも、放射能と付き合って生活をしていく覚悟をしなければならない。
一人一人が、原発の歴史を省みては、その問題点を論じ考え、政府や東電の動向を厳しく見つめ、50年後100年後の日本や未来の子供達の暮らしを見据えて、それぞれが判断、行動をし、政治を動かしていかなければならないのである。
すなわち、それは長年蓋をし続けてきた臭いの元、つまりは過去のツケと向き合っていくことを意味するということなのだ。
菅政権が望ましいとはこれっぽっちも思ってはいないが、臭いの元を白日の下に晒す稚拙な政治センスは、もしかすると今の日本にとって必要(悪)な総理であるのかもしれない。
差し当たって総理に相応しい人材がいないのであれば、少なくとも、蓋をするかつての政治よりは、いくらかはましな訳で、この際、過去の政治が蓋をしてきたものを洗いざらいぶちまけてもらって、国民が直視する機会にすればよいとすら思う。
少なくとも、この国が本当によりよい社会を目指すのであれば、これ以上蓋をする政治を許してはならない。
国民自らが鼻を利かしていくしかないのだ。
最後に話は変わって、個人的な事を少し書かせていただきたい。
先日、政治や社会問題に関するブログの中で多くのアクセスを誇る「kojitakenの日記」にて、当ブログの「電源三法」のエントリーを取り上げていただいた。
実は、普段から覗かせていただいているブログだったので、いつものように一読者として訪問しフムフムと読み終えて気づいたのだが、まさか自分のブログのことが書かれていたとは思いもよらず、時間差で驚いた次第である。
こんな、よちよち歩きのブログにまで、足?を運んでいただけてるとは、「kojitakenの日記」の懐の深さと見識の広さに、改めて感じ入ると同時になんだか背筋がピンと伸びる思いがした。
まずは、自分の考えをネット上で発信することから始めた当ブログだが、当初から考えていた、横へ繋げていく第二段階の動きも、これを励みに始めていくつもりだ。
もちろん、その先の考えも色々とあるのだが、いずれ機会があれば当ブログで伝えていきたいと考えている。
追記:
その「kojitakenの日記」にて電源三法廃止キャンペーンのキャッチフレーズを募集中とのこと(笑)
なにやら当ブログエントリーをそのまま候補にしていただいているようで、ありがたいやら恥ずかしいやら(汗)
この場を借りて、重ねてお礼申しあげます。
不信任案、2日提出を示唆 自民・逢沢氏菅政権に対して不満や批判があるのは当然のことだが、それと内閣不信任案がどう結びつくのか、自民党や公明党を筆頭に不信任案に同調しようとする野党は、何ひとつその根拠を示してはいない。
自民党の逢沢一郎国対委員長は29日午前のNHK番組で、菅直人首相の退陣に向けた内閣不信任決議案について「谷垣禎一総裁の腹は固まっている。そう遠くないときに提出する」と述べ、公明党と調整している党首討論翌日の6月2日の提出を示唆した。
公明党の漆原良夫国対委員長も「菅政権に日本の将来は任せられない。早い時期にお出しになった方がいい。賛同する」と同調した。
民主党の安住淳国対委員長は「憲政の常道に従って粛々と否決する自信がある」と強調。「否決されれば信任ということだ。重要法案成立にご協力いただく」とけん制した。
(2011年5月29日 共同通信)
それもそのはずで、民主党の小沢グループの動きに対して敏感に反応し、秋波を送り合っているにしか過ぎず、そもそも不信任案に値する根拠など持ち合わせていないからだ。
彼らの目的は、菅総理を引きずり下ろすことにあり、今回の内閣不信任案提出の動きからは復興とはおよそかけ離れた政治家の思惑しか透けて見えてこない。
どうせ永田町のことなので、菅政権のままでは都合が悪い政治勢力が裏で糸を引いているのだろうが、はっきり言ってそんなことをしている暇は無いはずだ。
一刻も早く第二次補正予算の審議に入って、復興の道筋を示さなければならない時に、政治は一体何をしているのだろうか?
今回の震災や原発事故に対する政府の不十分な対応が、すべて菅総理の責任のように見えてしまうのは、悲しいかな彼自身の総理としての資質に関わる話ではあるが、そこが本質的な問題なのではない。
本質的な問題は、政府や国が、長年に渡って国家の危機管理を怠ってきた歴史そのものであり、その責任は歴代の政権とそれに携わってきた官僚達がまず問われるべき話なのである。
本来、政権や総理大臣が代わろうと、国家の危機管理体制は維持されるものでなければならないはずだが、この国は政権が変わっただけで、中国の漁船一隻が起こした出来事で国が揺らいでしまうほど、脆弱な危機管理体制しか、そもそも持ち合わせていなかったというのが現状なのだ。
今度の原発事故の注水騒動ひとつ取っても、情報と指示の連絡系統がまったく機能していないことを露呈したに過ぎず、総理の責任を問う前に、危機管理の不備を招いている国家の体質を見直していかなければ、また、同じ過ちを繰り返すことになるだけの話だ。
これは、自民党政権が長らく続いたことによって、領土問題しかり、普天間基地しかり、原発問題しかり、厄介な問題はすべて先送りにし、本質的に向き合おうとせず誤魔化してきた長年のツケが、ただ単に表面化している出来事にしか過ぎないのだ。
いくら臭い物に蓋をしようとも、臭いの元を取り除かなければ、いずれまた臭いが立ち篭るのは当たり前の話で、国民もさすがにその臭いに耐えきれず、民主党に政権を代えてみたら、一気に蓋が外れて悪臭が漏れ出したというのが、現在の日本の姿なのである。
まさに、福島第一原発の事故によって、日本中に放射能がばら撒かれた出来事と重なるのは、単なる偶然ではないはずだ。
確かに、もう少し蓋の外しようがあるのも事実だが、だからといって、蓋を外した民主党や菅総理の責任を問い詰めてみたところで、臭いが消えて無くなるわけではない。
したがって、今回の野党と民主党の造反グループの動きによって、仮に菅内閣が退陣に追い込まれるようなことになれば、結局のところ、また蓋を被せて問題を先送りにしようとするに等しい愚行であると、当ブログでは強く指摘しておく。
これまでは、そうやって国民の不満や批判の矛先を誤魔化すことは出来たかもしれないが、こと原発問題に関しては、もはや誤魔化しようがないレベルの問題となっているのだ。
我々は放射能に汚染された日本から逃れることは出来ないのである。
否でも応でも、放射能と付き合って生活をしていく覚悟をしなければならない。
一人一人が、原発の歴史を省みては、その問題点を論じ考え、政府や東電の動向を厳しく見つめ、50年後100年後の日本や未来の子供達の暮らしを見据えて、それぞれが判断、行動をし、政治を動かしていかなければならないのである。
すなわち、それは長年蓋をし続けてきた臭いの元、つまりは過去のツケと向き合っていくことを意味するということなのだ。
菅政権が望ましいとはこれっぽっちも思ってはいないが、臭いの元を白日の下に晒す稚拙な政治センスは、もしかすると今の日本にとって必要(悪)な総理であるのかもしれない。
差し当たって総理に相応しい人材がいないのであれば、少なくとも、蓋をするかつての政治よりは、いくらかはましな訳で、この際、過去の政治が蓋をしてきたものを洗いざらいぶちまけてもらって、国民が直視する機会にすればよいとすら思う。
少なくとも、この国が本当によりよい社会を目指すのであれば、これ以上蓋をする政治を許してはならない。
国民自らが鼻を利かしていくしかないのだ。
最後に話は変わって、個人的な事を少し書かせていただきたい。
先日、政治や社会問題に関するブログの中で多くのアクセスを誇る「kojitakenの日記」にて、当ブログの「電源三法」のエントリーを取り上げていただいた。
実は、普段から覗かせていただいているブログだったので、いつものように一読者として訪問しフムフムと読み終えて気づいたのだが、まさか自分のブログのことが書かれていたとは思いもよらず、時間差で驚いた次第である。
こんな、よちよち歩きのブログにまで、足?を運んでいただけてるとは、「kojitakenの日記」の懐の深さと見識の広さに、改めて感じ入ると同時になんだか背筋がピンと伸びる思いがした。
まずは、自分の考えをネット上で発信することから始めた当ブログだが、当初から考えていた、横へ繋げていく第二段階の動きも、これを励みに始めていくつもりだ。
もちろん、その先の考えも色々とあるのだが、いずれ機会があれば当ブログで伝えていきたいと考えている。
追記:
その「kojitakenの日記」にて電源三法廃止キャンペーンのキャッチフレーズを募集中とのこと(笑)
なにやら当ブログエントリーをそのまま候補にしていただいているようで、ありがたいやら恥ずかしいやら(汗)
この場を借りて、重ねてお礼申しあげます。
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